雪女が僕の家に居ついて二月(ふたつき)が過ぎた頃だった。
暖かな陽気が地面を照らし、溶け残った雪が汗をかいている。若葉が芽吹き、豆粒ほどの花が白紫に道端を飾っている。
すっかり雨戸のつららは消え失せ、かわりに屋根からしたたる雪解け水が宝石のように光って落ちた。

最初の異変は、片足の欠損だった。
僕が用事から帰ってくると、雪女は玄関でうずくまっていた。
座り方が不自然だと思ってのぞくと、すでに彼女の左足が溶けて消えていた。
玄関には、おそらく先ほどまで足の形をしていたであろう雪の塊が水たまりをつくっていた。

「心配しないで。不安な顔をしないで。私は……」
次の言葉で、僕の心は見えない何かでえぐられた。

「私はとても幸せだったから」

その刹那、僕と雪女は同時に涙をこぼした。
涙の意味はとても複雑だった。
はじめは雪女が一方的に僕へ恋文を読み上げるかたちではじまった二人であったが、しかし今は僕の方が彼女を想っていることに気づいた。同時に、僕が二度愛した彼女はやはり幻のような存在で、確かに命はそこにあっても、人間のように赤い血を流していないことを思い知らされた。
そして、この儚くも愛おしい僕らの関係は、春の陽気とともに溶けてなくなるのだと。

「逃げよう、北へ。まだ寒さの残る北の地へ」
たまらなくなった僕は、雪女を担いで走り出した。
すでに足一本分の重さがぬけているせいか、はたまた外からは見えない部分もすでに溶け失せてしまっているのか、人ひとりの重さはまるでなかった。
雪女の息は、すでに弱弱しかった。僕の北国への逃亡案に賛同も否認もせずに、彼女は僕の背中に身を任せた。

必死だった。ついに見つけた伴侶だった。
愛に飢えていたわけではない。人肌が恋しかったっわけでもない。
ただ、あのしんしんと雪の降る夜から始まった奇跡を一秒でも長く生かしてあげたかった。僕の世界の中心は決して僕自身ではない。この得体の知れない雪女であった。僕のすべてを投げうってでも生きてほしいと願える存在を、僕は必死で守り抜きたかった。

丸一日、走り続けた。
草履(ぞうり)がどこで脱げたかもわからない。
気づけば傷だらけの裸足をひきずり、道なき道をただ進んでいた。
橙色の夕焼けが、僕らを包んだ。どうか暖めてくれるなと、僕は夕日をにらんだ。

「もう、平気。ここで、やめて」
かすれた声が、耳元でささやいた。「でも……」と僕はしわがれた泣き声で反論した。
「ここで、降ろして。お願い、もう、あなたの方がぼろぼろよ」
白紫の小さな花が、毛布のように群をなして咲いている。僕はそこに彼女をおろした。
すでに、彼女は顔と体と右腕を残して、それ以外の四肢を失っていた。息をするのもやっとのようだった。
それでも僕を見つめたその表情は、優しげに、幼げに、愛らしく、健気で、儚かった。
「すまん、守れなかった」
僕は無意識に謝った。
「ありがとう。あなたに二度、恋ができてよかったわ」
雪女は、残った右手を必死で持ち上げ、僕の頬をなでた。
冷たい指は、僕の頬と心をあたためた。涙は意思とは無関係にどうしようもなく流れてきて、愛する彼女の最期を、ぐしゃぐしゃの顔でただただ見下ろすしかできなかった。
茜色の空は、残酷にも暖かい光で僕らを照らした。

「また、会えるだろうか」
弱い僕はそう言った。
「ええ。きっと、また雪の深い冬の夜に」
強い君は、微笑んだ。

白紫の花たちが、ふわりと揺れて。
先ほどまで生きていた雪の結晶が、花びらに水滴をつける。
水滴は夕日の橙色を反射させ、まるで宝石をふりまいたように輝いている。
美しい。
美しいに決まっている。
なぜなら、僕が愛した人なのだから。