名刀 彼の名は『こてつ』

ある日、僕は子猫を譲り受けた。猫の名は『こてつ』。爪と牙は血に飢えた日本刀のごとく鋭く、黒と茶の縞模様は悪魔を召喚する魔法陣のように規則正しい幾何学模様をなしている・・・!!!

2017年01月

僕は夏が好きである。
よく友人に笑われるのだが、夏のあの、物語が始まりそうな空気がなんとも好きなのである。

49

夏はいい。
早朝は朝顔が黎明を浴びて必死に伸びていて、ラジオ体操に駆ける子供たちが見える。
昼は冷やし中華と麦茶で夏の味覚を堪能する。麦茶のコップについた水滴をはらって、
やっと出かける。
夕方はひぐらしの大合唱が赤い空に音符を泳がせる。背の高い林の真ん中にある神社に座ると、木陰の涼しさが心地よい。
夜は夏祭りが開催されている商店街へ浴衣姿が行列をなす。りんご飴だけでも買おうかな、なんて思って、こちらはジャージとティーシャツで出かける。虫よけスプレー、忘れずに。

今、冬ですけどね。
僕は夏が好きなんです!
写真はうちの飼い猫です。名前はこてつ君、初夏に拾われた0円猫です。
 

さて、僕は旅を愛している。
今回は旅の尊さ素晴らしさを存分に語ろうと思う。


image (97)

おっと、その前に、一つ。否定的な愚痴を言わせてほしい。
「自分探しの旅」という名目で旅行する人がいるが、そういう格式の高い方々はその旅路でちゃんと『自分』を探し当てることができているのだろうか。
 
僕はこれまでの人生で何度も旅をしてきたが、旅先で自分を見つけ出したことなど一度もなく、むしろ日常の自分を忘れ、自我を形成するまどろっこしい何やかんやから距離を置くことを旅の目的にしてきたといっても過言ではない。
どちらかといえば、『自分探し』とは対極の『自分忘れ』を娯楽的に楽しむのが旅だと考える。

旅先の、そう、自分が暮らしている街から遠く離れた田舎や都会にも僕らと同じような人間が等しく暮らしていて、しかし自分を知っている人間は誰もおらず、自分とは無関係の時間が流れている。
旅先に期待することとは、そういう日常から乖離した贅沢な孤立感ではないかと考える。

だから、自分探しの旅に出ても自分を見つけることなどできないのではないだろうか。
自分を『見つめる』ことはできたとしても。
しかし、旅路の中で自分を見つめる暇があったら、僕は僕の知らない街を眺めていたいが。


現在、僕はとある雪国にひっそりと暮らしているのだが、昨年まではもっと西の国に住んでいた。
僕にとっては、縁もゆかりもない土地だった。
友達がいなかった僕らは、よくとある猫カフェを訪れていた。

image (91)

猫カフェとはとても奇妙な場所である。
まず、ただ猫を愛でるだけで金がかかる。猫はただ自由に高い所へのぼっていたり、窓際で昼寝をしているだけなのに、僕ら人間は猫たちに金を払う。
それでも猫たちに会いたいというモノ好きたちはわくわくしながらここに足を運ぶ。

「うちに猫がいるんだから、猫カフェなんて行かなくてもいいじゃん」と僕は言う。
「よその家の猫は別腹!」と姉は反論する。
ぴくりと、こてつは「ここにうちの猫がいるのによその猫の話をするな!」と不機嫌な顔でこちらをにらむのであった。

しんしんと雪が降る。
冬の夜の街に、我が家の明かりが灯る。
家の明かりは連鎖し、街に点々と広がっていく。
世界は、猫と人間とそれ以外でできているのだろうと、そう思わせる我が家であった。

猫とは非常に奇妙な生き物で、とはいえ僕は猫を飼った経験がこのこてつ一匹しかいないのだが、猫の行動を縛ることは不可能に近く、不可能というより試みることすら禁忌なのではないかと思わせる何かが存在する。

16

『猫は人を役に立つペットだと思っている』という誰かさんの名言にある通り、僕らは彼ら(猫ら)を縛ることはできないのだろう。
物理的に縛ろうと思えば、首輪でも鎖でもつければいい。
しかし、そんな束縛は愚行であると思わせる雰囲気が、猫の琥珀色の瞳から漏れ出し、部屋中の(はたまた世界中の)空気を満たしていく。その空気が夜風とともに世界中をめぐり、猫が所有する自由を保障しているのだと、僕は考える。

ストレス発散の方法は人それぞれで、毎日晩酌をしている人もいれば、運動をしたり、はたまた旅行に行ったりする人もいる。

ではストレスの原因はなんだろう。
仕事、家事、人間関係、病気、孤独、・・・取り除こうとしても取り除けないストレスの原因の数々。しかし人生が終わるまで付きまとう足枷(人によっては逆に生きる意味に成り得る)を、僕らはストレスと呼び、溜まったそれを別の方法で発散しようとする。

さて、僕のストレス発散方法は至ってシンプルで。
自分で豆から挽いたコーヒーをすすりながら煙草をふかしたり、朝から晩までこたつに潜って読み物をしたり、はたまた車をとばして近くの温泉へつかりにいったり。
何の面白みもない生活である。(生活に面白みがないとしても、僕の人生が面白くないこととは決して同義ではないので、そこはあえて強調しておく)

ここで奇妙なのが、我が(もしくは貴方の)人生における生きる意味を考えたとき、仕事や人間関係などストレスを貯める作業の方に生きる意味を見出すのか、はたまた自由時間・余暇でのストレス発散自体に生きる意味を見出すのか、人間には2パターン存在するのではと僕は考える。
いや待て、ストレス自体を感じない特殊な人種も存在するやに聞いてるから、そういう不感症なやつらを含めたら3パターンか。
どちらにしろ、人生の意味や生きる糧は何かと考えたとき、必ずストレスという概念が議論の中に登場することであろう。

人は、人生に意味を持たせたがる生き物である。
僕の場合の生きる意味はさておき、あなたが思う『あなたの人生の生きる意味』が、今あなた自身の生活におけるストレスになっていないことを切に願う。

このページのトップヘ