名刀 彼の名は『こてつ』

ある日、僕は子猫を譲り受けた。猫の名は『こてつ』。爪と牙は血に飢えた日本刀のごとく鋭く、黒と茶の縞模様は悪魔を召喚する魔法陣のように規則正しい幾何学模様をなしている・・・!!!

カテゴリ: 雑記・日記

日々、目標を立てて日常生活を送っている人は、この世にどれだけいるのだろう。

以前までの僕は、とても貧相で暗い目標を自らに架していた。

『とにかく一日、命を続けること』

僕は昨年まで、いろいろな事情があって体力的にも精神的にもぎりぎりの生活を送っていた。
というか、ただ絶望の中を手探りで生きている状態だった。

俗にいう20代は思いっきり遊び倒しなさいという元気いっぱいの一般論とは似ても似つかない地獄の生活だった。とにかく、一日一日、心と体を人間のそれに保つのがやっとだった。
こんな世界、いつか自ら命を絶って抜け出してやろうと考えていた。
自殺の名所に何度も通ったり、精神科に通ったりしていた。
おそらく、世間体は最高に優秀だったと思う。
大学を卒業し、新卒の就職希望ランキングで毎年上位に入るとある大企業に就職し、日本中を駆け巡って修羅場をくぐりぬけてきた。それ以外のすべてをすり減らして、20代をただ仕事のためだけに費やした。
しかし、僕は天才でもなんでもなかった。
凡人がいくら無理して追いついても、人生は長距離マラソンで、すぐに息切れをしてひざをつく結果となった。

そんなとき、あるきっかけがあって僕は逃げることを知った。
逃げることは罪でも不幸でもなく、逃げずに戦い抜いて野垂れ死にすることの方が後悔することに気づいた。

それから僕は、持っているすべてのステータスを捨て去り、故郷に帰ってきた。
最初は罪悪感と劣等感にさいなまれた夜もあった。今まで積み重ねてきたものを、崩したことへの後悔もあったかもしれない。
しかし、苦労の経験値だけは僕の中にたしかにたまっていて、土壇場の踏ん張りがある程度できる体と心になっていることに気づいた。

今、やっと体力的にも時間的にも余裕ができた気がする。
今ここからの、これからの人生が大人の青春を味わえる時間なのだろうと解釈している。

やりたいことはそれなりにある。
会いたい人も、少ないがいる。
深呼吸してから進む大人の余裕も身につけた気がする。

そうそう。笑われるから誰にも言わないけど、今年度必ずやり遂げたいことがある。
やり遂げられたときに、近くにいる人にこそっと自慢してみようと思う。

負けないよ。もう昔の苦しんでいただけの僕じゃないもんね。

人間はなぜ恋をするのか。あ、これはうちのアホ猫です。

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恋は本能と理性の合作である。
本能とは、男と女が一緒になり、ついては子孫を反映させていくという種の保存を目的としたプログラムが僕らのDNAに埋め込まれていることである。その結果、僕は可愛い女の子を見ると鼻の下をのばす猿に成り下がってしまった。
理性とは、夫婦の仕組みのことである。
種の保存が原理原則の最終目的であるにもかかわらず、少なくとも我が国の夫婦は一対一の男女で構成しなければならない。一夫多妻制は、僕の頭の中でしか許されていない。子孫繁栄においては実に非効率な制度である。
けど、きっと恋ってそういうものである。
一人の人を永遠に愛し、自身のすべてを捧げても『君』の幸せを願う。そういうくだらなくも尊い感情が、きっと恋なのだろうと思う(そのくらい、童貞の僕にでもわかる)。
嫉妬は悪である。浮気は犯罪である。だから、夫婦は一対一でないといけないようだ。

しかし、悪いことだとわかっていても禁断の林檎をかじりたくなるのもまた人間の性である。
ゲス不倫に代表されるように、不倫は文化である。文化的なものは未来永劫にわたって保存していかねばなるまい。善悪関係なく、そのすべてを。

思う存分、人間は恋をすべきだ。恋はきっと楽しいものだ。僕はよく知らないけど。
僕は恋をしていきたい。生きてるうちは(早く死にたいけど)、この心臓が動くうちは、愛しの君を追っていたい。
この目が見えるうちは、君を見ていたい。
声が出るうちは、君に愛を説いていたい。
両手が動くうちは、君を抱いていたい。
僕の脳が正常なうちは、君のことを考えていたい。
それ以外の何を犠牲にしても。

嗚呼、恋か。なんとも尊い感情だなぁと唾棄して、僕はエロ漫画を読み始める。

僕は温泉をこよなく愛する温泉マイスターだ。
写真は、熊本県の黒川温泉郷。

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今まで制覇した温泉は、ざっと以下の通り。
新潟県:瀬浪温泉、月岡温泉、赤岡温泉
石川県:加賀温泉
山口県:油谷温泉
熊本県:扇温泉、黒川温泉
大分県:別府温泉、湯布院

本当は、小さいころに群馬県の草津温泉や伊香保温泉なども行ったのだが、記憶にさっぱり残っていないのでノーカウントとする。

温泉は最高である。あの山奥の村から湯煙がたち、硫黄の匂いが湿気とともに鼻腔をくすぐると、ああ温泉郷に来たんだなと実感して嬉しくなる。
地球から染み出た養分がお湯に溶け、温泉として僕らの体を優しく包む。今の季節なんて、ちらつく雪を見ながら露天風呂に浸かれる。最高である。
「風呂は心の洗濯よ」と名言を残したアニメキャラがいたが、温泉は心にも体にも染み渡り、すべてを綺麗に温めてくれる。
人生に疲れたら、騙されたと思って遠方の温泉に浸かってみてほしい。自分のことを誰も知らない温泉街のお湯に浸かるんだ。
そうすれば、もっと死にたくなるだろう。

さて、僕は旅を愛している。
今回は旅の尊さ素晴らしさを存分に語ろうと思う。


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おっと、その前に、一つ。否定的な愚痴を言わせてほしい。
「自分探しの旅」という名目で旅行する人がいるが、そういう格式の高い方々はその旅路でちゃんと『自分』を探し当てることができているのだろうか。
 
僕はこれまでの人生で何度も旅をしてきたが、旅先で自分を見つけ出したことなど一度もなく、むしろ日常の自分を忘れ、自我を形成するまどろっこしい何やかんやから距離を置くことを旅の目的にしてきたといっても過言ではない。
どちらかといえば、『自分探し』とは対極の『自分忘れ』を娯楽的に楽しむのが旅だと考える。

旅先の、そう、自分が暮らしている街から遠く離れた田舎や都会にも僕らと同じような人間が等しく暮らしていて、しかし自分を知っている人間は誰もおらず、自分とは無関係の時間が流れている。
旅先に期待することとは、そういう日常から乖離した贅沢な孤立感ではないかと考える。

だから、自分探しの旅に出ても自分を見つけることなどできないのではないだろうか。
自分を『見つめる』ことはできたとしても。
しかし、旅路の中で自分を見つめる暇があったら、僕は僕の知らない街を眺めていたいが。


現在、僕はとある雪国にひっそりと暮らしているのだが、昨年まではもっと西の国に住んでいた。
僕にとっては、縁もゆかりもない土地だった。
友達がいなかった僕らは、よくとある猫カフェを訪れていた。

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猫カフェとはとても奇妙な場所である。
まず、ただ猫を愛でるだけで金がかかる。猫はただ自由に高い所へのぼっていたり、窓際で昼寝をしているだけなのに、僕ら人間は猫たちに金を払う。
それでも猫たちに会いたいというモノ好きたちはわくわくしながらここに足を運ぶ。

「うちに猫がいるんだから、猫カフェなんて行かなくてもいいじゃん」と僕は言う。
「よその家の猫は別腹!」と姉は反論する。
ぴくりと、こてつは「ここにうちの猫がいるのによその猫の話をするな!」と不機嫌な顔でこちらをにらむのであった。

しんしんと雪が降る。
冬の夜の街に、我が家の明かりが灯る。
家の明かりは連鎖し、街に点々と広がっていく。
世界は、猫と人間とそれ以外でできているのだろうと、そう思わせる我が家であった。

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